政治家や芸能人や、世の中に影響力のある会社の不祥事に対して、日本では謝罪会見を行うことが恒例化しています。会社の不祥事の場合、経営陣の方々が多数出てきて頭を下げているという印象があります。そのような謝罪会見を見ていて思うことは、「一体この謝罪会見は誰に対して謝罪しているのか?」という事です。
私を含めテレビを見ている人、謝罪会見の会場ににるマスコミの方の誰も被害を受けていないのに、なぜ関係ない人間に向けて謝罪をする必要があるのでしょうか?このような会見はいわゆるパフォーマンスでしかなく、「謝罪をする」という本質はありません。形式を重んじる日本人の考えが行き過ぎたのか、謝罪会見からは全く誠意を感じる事はありませんし、そもそも謝る相手は被害者だけで十分なはずです。
今回は日本で行われている「形式化」された謝罪会見に関して、海外の事情と比べながら見ていきたいと思います。
世界でも珍しい「謝罪会見大国」日本
そもそも論ですが、何か悪いことをしたときに謝る場合、加害者が被害者に謝るのが普通です。なんで何にも関係のない社会に対して謝る必要があるのでしょうか?海外では日本のような謝罪会見を行うことはほとんどありませんし、そもそも誰もそんなことを望んでいません。
日本では、法に違反することだろうが違反していない事は関係なく、何か悪いことをした会社や人間に対して謝罪会見をするのが当たりまえの空気があります。なぜこういう事が起きるのか?メディアは視聴者が興味のある事を提供することによって、数字が取れ、それが会社の業績につながるので、結局はこういった謝罪会見を期待している人が他国に比べて日本には多いのだと思います。
「この度は皆さまにご心配、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした。」という定型文のようなセリフがありますが、ほとんどの視聴者はこう感じていませんか?「別に心配もしてないし、迷惑もかかってないけど…」
不貞行為などはもちろん倫理的にもよくない事ですが、そのことについて本人や関係者以外の人間が騒ぐことではないと思います。こういったことに対して騒ぎ立てる社会自体に問題があるのではないでしょうか。
謝罪をする事と責任を取ることは違う
このような謝罪会見という文化が日本に根付いていますが、これは日本の幼少期から育まれている事に気づきます。子どもがお友達の事を叩いたとします。そうすると叩いた子どもの親が叩かれた子供の親に対して謝るケースと、叩いた子どもに「ほら、ごめんなさいは?」などと子どもに謝罪を無理やりさせる場合が多いと思います。しかし、その謝罪には何の意味もありません。
まず叩いた子どもの親が叩かれた子どもの親に謝る行為は問題外ですよね。この行為は「謝罪をすることでその場の体裁を取り繕っている」だけです。この行為からは子どもは何も学ぶことはできません。
また子どもに無理やり「ごめんなさい」を強要する場合は、「謝りたいという気持ちがないけど、とりあえず謝罪すればいいんだ」という間違った認識を子どもが持ってしまう可能性があります。こういった環境のもとで育つと、「責任を取る」事よりも「謝罪をする」事の方が重要な事だという考えになっていくのではないでしょうか。
子どもは精神的にも肉体的にもまだまだ未熟なので、自分が悪いことをしたという認識がない場合も多いです。ですので、自分の子どもがなにか悪いことをしてしまったときは、経験を得られるチャンスだと思って、子ども自身に謝りに行かせるべきです。
自分が相手にしたことの何が悪かったのか、どうすればケンカにならなかったのか、自分がやられた場合どんな気持ちになるだろうかなど、自分で考える機会です。こういったことを繰り返していくことによって、子どもは精神的に成長していきます。
謝ることでその場を丸く収めるという考えを子どもに教えてしまうと、謝罪と責任の違いが判らないうわべだけの人間になってしまう可能性があります。しっかりと責任感のある人間になってもらいたいのであれば、幼少期からしっかりと自分で考えさせ、自分が悪いことをしてしまった場合、しっかりと考えて反省させ、自分の中で納得が言ったうえで、相手に謝罪するという訓練を積ませましょう。
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