ミントリーフ運営会社の社長ってどんな人?
はじめまして。ミントリーフ・インターナショナル・プリスクールを運営している株式会社ZEN代表の森田昭仁と申します。
私は1976年、東京都大田区に生まれました。小さい頃から落ち着きのないやんちゃ坊主で、よく周りの人に迷惑をかけて大変な子どもだったことをうっすら覚えています。
学校の勉強は好きではなく、とにかく何かにつけて反発していましたが、高校はなんとか卒業することができました。自分の人生の先が見えない中、自分が本来したいことは何だろう?と自問自答していました。
そうだ、アメリカへ行こう!
小さい頃から憧れていたアメリカへ行って自分を試したいと単純に思ったのです。知り合いも誰もいない、もちろん英語も話せない、あるのはアメリカに対する憧れだけでした。
アメリカで生活するにはビザが必要なので、合法的にアメリカ滞在するためには「学生」になるのが当時の私の唯一の選択肢でした。そうと決まれば、それに向けて行動あるのみです。友人が親方をしている会社で職人として4年間がむしゃらに働きました。そこで貯めた800万円をもとに22歳でようやく単身アメリカに渡りました。
人生観を変えたアメリカ生活
当時は英語も全く話せなかったので、最初の1年間はESLという外国人専用の英語学校に通って英語を猛勉強しました。今まで勉強をしてこなかったツケでしょう。最初の1年は本当に苦労しました。
しかし、そんな頑張りのおかげか、1年である程度英語力がつきました。そこでいよいよコミュニティーカレッジ(日本でいうところの高専)に入学しそこでビジネスを専攻しました。
アメリカでの学生生活の中、人種差別にもあいました。友達と車で旅行中、車が故障してヒッチハイクでカナダまで行く途中のロッキー山脈で車がなかなか捕まらず、夜中に凍死する思いもしました。でも、それ以上に素晴らしい友人にも恵まれ、アメリカのでキャンパスライフを満喫しました。
この3年間のアメリカ生活が私の人生のターニングポイントになりました。
クラスメイトは若い学生だけでなく、社会人、セカンドライフを満喫している老人などがいました。当時18歳だったアメリカ人の友人は学生中の起業したり、40代のビジネスパーソンが自分の能力向上のために大学でビジネスを学び、それをもとにキャリアアップしたりしていたのを見て「高校を出て、大学へ行き、社会人になり、そのまま定年まで会社勤めをする」のが普通の人生だと勝手に決めつけていた私の考えに疑問を持たせてくれました。
帰国後の生活
25歳で帰国し、5年間サラリーマン生活を経験しました。サラリーマンとして最後に働いていた会社では、年間の半分は海外にいました。仕事でアメリカに滞在していたある日、サンタモニカである商材を見つけました。非常に気に入り、自分用に購入しました。そしてネットでいろいろ調べてみたのですが、まだ日本国内にはこの商品がありませんでした。
出張から戻り、その商品のメーカーに連絡し、日本での販売代理店の権利を獲得しました。このように書くと、なんだか簡単に権利をとることがでいたようにみえますが、結構大変だったんです。
この権利をとるのに企画書を30ページほど書き、それももって渡米して直接会ってプレゼンしました。その思いが通じたのか、実は水面下で他社と契約寸前までいっていた話を白紙にしてくれ、私と契約を結んでくれたのです。思い立ったら即行動!本当に行動って大事ですよね。
契約が取れたので法人を設立しました。この時ちょうど30歳、サラリーマンをやりながら法人の最高経営責任者として事業をスタートしました。最初はなかなか売れずに苦労しましたが、半年を過ぎたころからだんだんとビジネスが軌道に乗り、サラリーマンとの二足の草鞋では限界がきました。
そして会社をやめ、事業一本でいくことにしました。その後、着々とビジネスを大きくしていき、社員も20名ほどまでに成長しました。その後、医療系の別法人を立ち上げ、介護事業に参入しました。こちらも軌道に乗り、順風満帆化と思いきや、人生そんなに甘くありません。
医療系法人の立ち上げメンバーのうち、1人が裏切り、会社を乗っ取られました。いろいろあって、その会社は手放す事にしたのですが、もう少しで人間不信になるところでした。
でも、人生って捨てたもんじゃないんです。乗っ取りにあった会社の件でもめているときに、30歳の時に立ち上げた会社の取引先(アメリカの会社)からヘッドハントされたのです。1年間という期間限定でしたが、アメリカで仕事をすることは私の長年の夢でもあったので、海を渡る決意をしました。
再びアメリカの地へ
「独身で身軽だから、やりたいことできていいよな。」なんて思われていませんか?ちなみに、私はこの時結婚しており、妻は第一子を身ごもっている状態でした。そんな不安な時に、アメリカに移住し新たな生活を始めるなんてアホなことを抜かしている旦那についてきてくれた妻には感謝してもしきれません。
子どもが生まれて2か月の時に、まずは私だけ先にアメリカに行き、生活の基盤を作りました。そして子どもが生後半年になってから妻と子供がアメリカに来ました。
アメリカの生活では妻に苦労をかけました。妻は英語を話せません、しかも初めての子育てが海外、親も近くにいない。本当にあり得ない環境です。それでもなんとか生活していきました。ある程度すると妻もアメリカ生活に慣れ、子供も1歳になり友達もできました。
そして約束の1年になるちょっと前に、家族会議でもう少しアメリカに残る選択をしました。残るといってもアメリカで生活するにはビザが必要なので、自分で会社を立ちあげ、その会社からビザを取ることにしました。結局、そこから2年半アメリカで生活しました。
現地で立ち上げた会社は、日本企業のアメリカ進出のサポート、アメリカ企業の日本進出サポート、インバウンドビジネスのマーケティング業務などを担っていました。その業務の一環で日本がこれから観光立国としてのポテンシャルがあることに気づき、日本でゲストハウスを運営するために物件を探し始めました。
帰国、そして日本で再び起業する
運よく長野県にある築200年を超える歴史的建造物を紹介してもらい、そこをリノベーションしてゲストハウスにしました。2016年3月に帰国してから半年後の9月に本格オープンしました。ゲストの8割以上は外国人観光客ですが、地元の方と外国人観光客の交流の場所として、少しずつ認知されていきました。
そして、2017年9月には長野県長野市でインターナショナル・プリスクールを開園しました。開園に至った経緯は、息子がアメリカで受けていた教育に感銘を受け、日本に帰国しても同じような教育を与えてあげたいと思っていました。しかし、長野市にはそのような教育が受けられる幼稚園・保育園がありませんでした。
「無いのであれば自分で作るしかない。」ということで、認可外のインターナショナルスクールとしてオープンしました。そして2019年4月にはこの保育園が企業主導型保育園として新たにオープンしました。通常のインターナショナルスクールは保育料が高額ですが、当園は普通の保育園に通う金額と同等の価格で通えるインターナショナルスクールなので、今までインターナショナルスクールに入れたくても入れられなかった方や、国際教育に興味のある方々からの連絡が殺到して、あっという間に定員に達しました。
2019年8月には長野市の戸隠に2店舗目のゲストハウスをオープンしました。戸隠は村自体が重要文化財に指定されている歴史ある場所で、パワースポットとしても有名ですが、海外の方々にはまだまだ知られていません。この素晴らしさを世界に向けて発信して地域活性化に結び付けられればと思います。
これからはインターナショナルか日本式化に関係なく、「非認知的能力」を育む教育を提供できる保育園を全国規模で展開していくことを目標にしています。どの国も、その国が発展する背景には良い教育があります。私は「教育」=「国力」だと考えているので、これからの日本を担っていく子どもたちのためにできる事を自分のライフワークとして頑張っていこうと思っています。
かなり長くなりましたが、私の自己紹介でした。こんな人間が気ままに書いていくブログですので、お時間のある時にでも寄ってみてください。